寅楠の足跡を辿って

55回目の終戦記念日の早朝

日本橋から東海道を歩き始める調律屋がいた。

京都まで約500kmもの道程を

徒歩で辿り着こうというから無謀な計画だ。

 

連日の報道では、残暑が例年より厳しいと

伝えられている中でのスタートである。

調律屋自身も、まさか京都まで到達できるとは考えていない。

まぁ行けるとこまで行ってみよう、という程度の決意だった。

 

しかし、彼の中には東海道を歩く密かな目的があった。

そして、それは出発してから3日目の小田原-三島間にそびえる

箱根の峠を越える時、まさに現実的な体験となった。

 

 

明治20年(1887年)7月15日

山葉寅楠が初めて修理の為にアメリカ製のオルガンに出会った日である。

寅楠は、壊れたオルガンの修理にすぐには着手せずに

ひと月ほどかけてオルガンの図面を書き上げてしまう。

そして、飾り職人の河合喜三郎と共に

国産一号のオルガンを二ヶ月ほどかけて製作している。

 

しかし、形こそそっくりで音は出るものの

何やら演奏するには音の調子が悪い。

それもそのはず、寅楠は調律というものを知らなかったのである。

そこに県知事の関口氏が

「東京には音楽の学校があるからひとつこのオルガンを診てもらって

 音の秘密を勉強してみるのはどうだろう?」と紹介状を書いてくれる。

 

そこで寅楠と喜三郎は、そのオルガンを天秤棒で担いで

東京の音楽学校(現:東京芸大)まで持って行く。

当時の鉄道は、新橋から小田原の手前までしかなく

浜松から箱根を越えるまで全くの人力で運ぶしかなかった。

当時としては当たり前のコトなのかも知れない。

しかし、それは“当たり前”という言葉で

簡単に片付けられることではなかったのである。

十月末に、寅楠達はオルガンを担いで

「天下の剣」箱根を越えるのである。

 

 

調律屋は東海道を歩き出して3日目の朝

小田原のホテルを5時に出発して、7時に箱根の旧道にさしかかる。

旅館が立ち並ぶ狭い道の脇には川が流れている。

すでに上り坂がゆっくりと始まる。やがて民家もなくなり

木々が風に揺れる音と、蝉の声だけが耳を支配する。

ひたすら登る。

 

畑宿を過ぎてからからは、あまりの坂のきつさに

もう東海道を京まで歩くことなど、すっかり諦めている。

とにかく今日は、箱根の峠まで辿り着ければいいやと弱気になる。

そして、ただひたすら登る。

 

ヒザが笑い、呼吸が重くなり、汗が全身をおおう。

“七曲がり”と呼ばれるかしの木坂で、へたりこむ。

登ってきた下界と視界に広がる険しい山々の

深く濃い緑を恨めしげに見つめる。

調律屋は、息絶え絶えになりながら、ふと独り言をもらす。

 

「トラクスモ コノケシキヲ ミタンダ」

その瞬間、彼の中に感動が走り抜けた。

百数年前、あの寅楠もここを歩き、この景色を見たのだ。

どんな思いで見つめたのだろう。

決して、こんなへこんだ気持ちではなかったはずだ。

こんな労苦も惜しまずに東京へ持って行きたかったオルガンへ

寅楠はどれだけの情熱を託していたのだろう。

そうだ、寅楠は希望に満ちてこの景色を見たに違いない。

「寅楠も この景色を見たんだ!」

をの感動は、疲れを吹っ飛ばすには充分だった。

 

35歳の寅楠の足音が、呼吸が、熱意が感じられるようだった。

調律屋は水をかぶったように汗だくになりながら

それでも爽やかな感動に包まれて甘酒茶屋に辿り着いた。

 

 

寅楠と喜三郎は、まだ陽も昇らぬカワタレ時に三島の宿を発ち

昼過ぎに峠を越えて、甘酒茶屋で休憩していた。

茶屋の主人は、二人が担いでいる見慣れない箱に興味を持ち

「その荷は、いったい何かね?」と問いかける。

『これは風琴というもんです。

 なんとか我々日本人の手で立派なもんが拵えんかと思って

 東京の音楽の先生に診てもらいに行くとこです』

 

そして寅楠は、堰をきったように

これからの日本の子供達の為には風琴が不可欠なこと

しかし外国製の風琴は高価であるため

何としても国産の立派な風琴を造ってあげたいことなど

これまでのいきさつを説明する。

 

そして茶屋で風琴の音を響かせてみた。

茶屋で憩っている他の旅人達は

初めて耳にする音にしばし驚嘆し心やすらいでいく。

寅楠は、自分が浜松の元城小学校の前を通りかかった時

初めて聞いた風琴の音に感動した

あの夏の昼下がりのことを思い出していた。

そして、自分で拵えたオルガンが

人々の心を捉えてることに更に感動し

ますますもっと立派なオルガンを造る決意を深める。

その為にも、この峠を早く下って

東京へ辿り着かねばと、疲れを忘れ旅支度を始める。

 

 

調律屋は汗だくになった作務衣を着替え

甘酒茶屋で甘酒と餅を食べた。

茶屋十二代目の主人は、歩いて峠を越える人には

寛大なもてなしをほどこしてくれた。

この主人の先祖は、寅楠達と言葉を交わしたに違いない。

調律屋は、ここで展開した茶屋の主人と寅楠のやりとりを

あれこれ想像し、峠へ向かう支度を始めた。

別れ際、主人から「京まで頑張って辿り着いて下さい」と

激励の言葉と餞別をいただいた。

その封の中には、調律屋が初めて見る二千円札が入っていた。

 

やがて当時を偲ばせる、うっすらとした石畳の坂を登っていくと

想像以上に歩き難く、この道を天秤棒でオルガンを担いで

通っていった二人の心境を偲んだ。

標高846メートルの峠を越え、長いダラダラとした下り坂を

延々と歩きながら、ようやく三島に入った。

三島大社の祭りが最終日を迎えていて

やたら活気づいた街で宿を探した。

箱根越えをした者には祝福にすら感じられ

高々と上がった花火が、一日の疲労をねぎらってくれた。

 

 

国府津から鉄道に乗り、東京に着いた寅楠達は

音楽学校の伊沢所長に会い、オルガンを診てもらう。

しかし、やはり音について全く無知な者の造ったオルガンは

使い物にならないと言われてしまう。

 

しかし寅楠の情熱に打たれた伊沢所長は、寅楠を特別聴講生として

音楽学校で学ぶ特例な許可を与える。

寅楠は一人残り、一ヶ月間音楽と調律の勉強をして浜松に戻り

すぐに二台目のオルガンを作り、再び箱根を越える。

雪のちらつく箱根を越えた二台目のオルガンを弾き

伊沢所長は「遂にやりましたね!」と二人の手をとり笑顔で叫ぶ。

日本の鍵盤楽器の歴史の幕開けである。

 

 

「あの山葉寅楠は、天秤棒でオルガンを担いで箱根を越えたんだよ。

 情熱はどんなものでも越えられるんだね」

ある夜の酒宴の席で、チェンバロ製作家の久保田彰氏が

ポツリと語った一言だった。

調律屋は恥ずかしながら、そんなエピソードすら知らなかったが

深く心に残った一言だった。

箱根とはどんなものなのだろう…

寅楠は、何故そこまでして、東京くんだりまで行ったのだろう…

寅楠とは、どんな人物だったのだろう…

 

 

調律屋は日本橋を発って七日目に浜松を通過した。

寅楠は大阪から浜松へ旅をしてきたから

更に西へ寅楠の足跡を確かめるように歩き続けた。

 

百数年前、ここから出発した寅楠の情熱の延長に

自分は存在していると思った。

この極東の日本で、平凡な自分が調律を生業としていられるのは

あの寅楠の情熱の御陰だと確信した。

 

ピアノが当たり前のように普及していて

音楽学校が充実している極東日本。

調律学校を出て、当たり前のように調律を

仕事として生きていられる自分

その当たり前の陰には、寅楠のただならぬ情熱があった。

 

調律屋が東海道を京まで歩いてみたくなった

密かな目的は、そこにあった。

“当たり前の重み”を実感してみたかったのだ。

 

そして東京を発ち十四日目の夕方

調律屋は500kmを歩き終え、京の三条大橋に辿り着いた。

ヤジさんキタさんの像の前で写真を撮った。

陽気な観光客の賑わいと、鴨川のせせらぎと

ひぐらしのカノンが迎えてくれた。

 

 

[著者後記]

西暦2000年8月15〜28日
東京の日本橋から京都まで東海道を歩いた旅

その体験をベースにしています。

 

極東日本に、これだけクラシック音楽が普及して

毎日のようにコンサートが開催されていること…

その背景に初めて気付いた頃の旅でした。

 

当時の国策ともリンクして

山葉は、やがて世界のYAMAHAに成長していくのですが

その最初の一歩が、この寅楠の情熱だったように思えます。

 

甘酒茶屋での主人と寅楠の会話のみフィクションですが

その他の部分は史実に基づいています。

 

 

 

 

 ∵ 日 々 創 作  ∴ 時 々 仕 事

 

3/ 26 動画

冬の終わり

2/ 4 作曲

獏飼い注意

1/24 作曲

ゆらゆら

1/12 動画

自我持参

12/ 31 作曲

元旦敬白

12/ 22 作曲

冬の友達

12/ 22 作曲

ドレミは空白

11/ 21 動画

キタロー誕生

11/ 11 作曲

ゆみはりぬ 冬

11/ 7 作曲

かえり道

10/28 楽器

「キタロー君」

9/17 録音

「1st Concert 2015」

8/19 動画

うるう笑み