チビクロ三度

調律を終えると、アンドレアスは

クララを呼んでピアノを弾いてもらいました。

「いかがでしょうか?」

『すごく奇麗な響きになりました。いつも本当にありがとうございます』

そう言いながらクララは、しばらくピアノを弾き続けました。

 

白く細い彼女の指は、しなやかに鮮やかに

美しい響きを部屋中に満たしていきます。

このひとときが、アンドレアスにとって、何よりの幸せでした。

ずっとずっと、このままでいられればいいと

深く息を吸い込みながら思っていました。

 

「お母さんの具合はどうですか?」

アンドレアスは何気なく尋ねながら、温かい紅茶をすすりました。

するとクララは、淋しそうに笑いながら

少し間をおいて、ゆっくりと答えました。

『もう、あまり長くないんです。あの病気に効く薬は

 とても高価だから、私達では買えないのです』

 

クララは病気のお母さんと二人で暮らしていました。

お父さんとお兄さんは、戦争で亡くなったと聞いたことがあります。

それで、クララは大好きな音楽の道をあきらめて

街のパン屋で働いているのでした。

 

「そうですか…」

アンドレアスは、そう答えるのがやっとでした。

それは、愚かな質問をしてしまったからなのか

何の慰めの言葉もかけてやれないからなのか、自分でも分からないのですが

いずれにしても、あまりにも無力な自分が惨めで悔しかったのです。

 

それでもクララは、いつものように笑顔で見送ってくれました。

玄関の扉を開けると、切りつけるような冷たい風が全身を縛り

あたたかい夢から一気に現実へ引き戻される気がしました。

『また来年もいらしてください!』

「アレス・グーテ!」

 

 

・・・・・・・

 

日曜の教会の帰り道、広場の掲示板に貼られている

コンテストの案内が、アンドレアスの目にとまりました。

それは、新たに王権を引き継いだばかりの

まだ若い王様からのものでした。

 

アンドレアスは、その公募を読み終えると

「これだっ!」と独り言をもらし

早速必要な書類を取り寄せる手続きをしました。

数日後、数枚の楽譜と、申込用紙が送られてきました。

アンドレアスは、その楽譜を持ってパン屋に走って行きました。

 

クララは、息を切らせながら興奮しているアンドレアスに驚いて

どうしたのかと尋ねました。

アンドレアスは、少しどもりながら説明を始めました。

それは、音楽好きの新しい若い王様が、自分で作った曲を

一番上手に演奏した者に賞金を与えるというものでした。

 

「もし、その賞金がもらえれば、お母さんの薬が買えるんですよ!」

クララは少し困った笑顔で答えました。

『それを…私が演奏するということですか?』

「そうです!クララさんなら絶対に出来ますよ!

 コンテストまで半年ありますから、頑張ってみてください!」

アンドレアスは、そう言いながら楽譜を渡しました。

クララは黙って楽譜を見つめていました。

 

 

それから数日後、クララから手紙が来ました。そこには

『あの曲の練習を始めたのですが、何かひとつ手応えがありません。

 それは、シチリア民謡のような素朴な曲なのですが

 ピアノでは巧く表現できないからではないかと思っています。

 それでアンドレアスさんの御意見をいただければと思っております。

 一度、聞きに来ていただけませんか?』と書かれていました。

アンドレアスは、すぐにクララの家へ行きました。

 

アンドレアスはクララの演奏を聴きながら

なるほど、確かに上手いのだけれど

何となく何かがしっくりいってないと思いました。

しかし、それが何かが分かりません…

そこにガウンをまとったお母さんが現れ

アンドレアスに丁寧に御礼を述べてから、こんなことを言いました。

 

『この曲はリュートのような音をイメージして作られた気がします。

 三度の音程が美しいチェンバロで弾いてみたらいかがでしょう?』

「なるほど、お母さんのおっしゃる通りかも知れません。

 しかし、三度の音程を奇麗にすると、とてもこの曲の全ては

 弾けないと思います。巧みに転調されていますから…」

アンドレアスが困惑していると、クララが冗談のように言いました。

『それでは、鍵盤を増やしてしまえばいいんじゃないかしら?』

これには、お母さんも思わず苦笑してしまいましたが

アンドレアスは急に目を輝かせながら

「そうだ!それですよ!」と叫びました。

クララとお母さんは、ポカンとしたままアンドレアスを見ていましたが

アンドレアスは、何かに取憑かれたように

一目散に家へ帰ってしまいました。

 

 

・・・・・・・

 

短い夏の終わりに、王様の即位一周年のお祭りがありました。

国中が沸き上がり、様々なところで、お祝いの催しが開かれました。

王様の曲のコンテストは、最終日に宮廷で開かれました。

アンドレアスとクララは、お城まで馬車でチェンバロを運び

コンテストの準備を整えていました。

コンテスト参加者は、それぞれに与えられた部屋で

一生懸命最後の練習をしていました。

ピアノ、弦楽合奏、ギターなど、どれも素晴らしい演奏が聞こえてきます。

 

アンドレアス達が運び入れるチェンバロを見つめる周囲の眼差しには

冷淡な嘲笑が混じっていました。それは、アンドレアスがやっとのことで

作り上げたチェンバロが、あまりにもみっともなかったからです。

ちっちゃくて、真っ黒なそのチェンバロには、鍵盤が沢山ついてました。

 

アンドレアスは調律しながら、だんだん不安になっていきました。

クララの演奏は、誰にも劣らないけれど

この素人が作った楽器が、足を引っ張ってしまったら…

そんな様子を見ながらクララは優しく言いました。

『アンドレアスさん。この楽器は私にとっては、かけがえのないものです。

 あなたが、私達親子のために一生懸命作ってくださったのです。

 私は、この楽器からたくさん勇気をいただいてるのですよ!』

 

夜になると、いよいよコンテストが始まりました。

審査員は、王様の他に宮廷楽長や有名が楽士達がズラリと並んでいます。

その顔ぶれを見ただけで、アンドレアスは萎縮してしまいましたが

クララは目をつむって凛としていました。

そして、クララが演奏する順番が回ってきました。

 

静まりかえった大きな部屋に、クララの心が音となって

翼のように広がっていきます!

それは時間と空間を自由自在に飛び回る魔法のような瞬間の連続です!

そして、最後の音が減衰していき、静寂の密度が最高潮に高まった瞬間

それまでにない熱い熱い拍手が沸き上がりました。

いつまでもいつまでも鳴り止まないと思えるくらい

ずっと拍手と歓声が続いています!

アンドレアスは、崩れかけたクララを、そっと抱きしめました。

全ての力を出し切って飛んで来た小鳥のように

クララは、アンドレアスの腕の中で小さく震えていました。

 

 

・・・・・・・

 

また冬がきて、クララの家に調律に行きました。

その部屋には、アンドレアスが作った無骨なカラスのような

チェンバロが置いてあります。

出迎えてくれたお母さんは、薬が効いたようで

すっかり回復して元気な笑顔を見せてくれました。

 

調律を終えると、いつものようにクララにピアノを弾いてもらいました。

「いかがでしょうか?」

しかし、クララは何も答えずにピアノを弾き続けています。

クララの背中が小刻みに震えています。

その演奏を聞いているうちに、アンドレアスは何かとても重く

悲しい予感に縛られていくのを感じました。

それを知るのが恐ろしくて、思わず後ずさりしてしまう程でした。

そして、その予感は的中してしまったのです。

 

 

・・・・・・・

 

新しい夏がやってきました。国民は再び沸き上がっています。

それは、王様の結婚式が盛大に祝われているからです!

ここから見ていると、まるで豆粒ほどの王様とお妃様が

宮殿のバルコニーから手を振っています。

そして、豆粒ほどのクララは、今までで一番奇麗に輝いていました。

いつまでもいつまでも鳴り止まないと思えるくらい

ずっと拍手と歓声が続いています!

 

決して手の届かない高すぎる夏の空に

このささやかな夢も、あの夏の小鳥も

全てが吸い込まれてしまいました。

 

 

・・・・・・・

 

「ねずみの恩返し」に続いて、ドイツの百年前の調律師

アンドレアス・ヘフラーの日記帳から抜粋させていただきました。

アンドレアスの作った楽器が、クララ親子を助けたにも関わらず

それがきっかけでクララが王様に見初められてしまい

お妃になるという皮肉な結末でした。

きっと「高すぎる空」という表現で、身分の違いを嘆いていたのでしょう。

 

クララという王妃は史実にこそ登場しませんが

もしかしたら別名で実在していたのかも知れません。

いずれにしろ、我々にはその演奏を聞くことができないのが

なんとも残念であります。

 

この物語と共に書かれていた曲の楽譜には

GesからHisまでの音が登場していましたから

このチェンバロはオクターブを19に分割されていたと思われます。

それを、ミーントーンで調律したのでしょう。

 

クララとアンドレアスの響きに好奇心がくすぐられ

私も19分割のチェンバロを試作してみました。

当時のアンドレアスの楽器より、みじめな楽器になってしまいましたが

アンドレアスの純朴な情熱みたいなものに、ほんの少し触れた気がします。

もっとも、アンドレアスが噛み締めた孤独感のほうが

とてもよく伝わってきてしまったのですが…

 

 

 

【著者後記】

私が最初に造った楽器が、オクターブを19分割したチェンバロでした。

この物語を読んだのがきっかけで、自分でも造ってみたくなった…

というのではありません。

 

19分割チェンバロを製作して、多くの人に

「なんでこんな弾けない楽器造ったの?」と聞かれて

なんかメルヘンな理由が欲しくなって書いた物語なのです。

 

「ねずみの恩返し」でも解説しましたが

アンドレアス・ヘフラーという調律師は空想上の人物で

彼の日記帳という架空の作品からの引用という策を練っています。

 

理由は簡単で、私が創作したものなど、誰も読む気がしませんが

歴史的に存在した無名の物語の発掘となれば

ちょっとは関心を持ってもらえるのでは、という姑息な作戦です。

 

アンドレアスの日記帳からの物語は

今のとこ、この二作だけですが

これからまた、いつか書き足していくつもりです。

 

 ∵ 日 々 創 作  ∴ 時 々 仕 事

 

7/17 動画

音の影

7/15 作曲

テノヒラ未来

3/ 26 動画

冬の終わり

2/ 4 作曲

獏飼い注意

1/24 作曲

ゆらゆら

1/12 動画

自我持参