ネクタイをしめて ②

10年前の 6月のことだった 

杣は 川越のオーディオショップの ショールムで

チンチロ チンチロ チンチロリンと チェンバロの調律をしていた

 

それが リハーサル前だったのか 本番前だったのか

正確に 記憶していないのだが

ショールームの電話が鳴り 受話器は店主から チェンバリストへ手渡された

 

チンチロ チンチロ チンチロリン

 

杣は 調律をしながら 電話をしているチェンバリストを 眺めていた

会話の内容までは 分かるはずもないのだが

チェンバリストの表情の変化から 重たい予感を受け取った

 

それでも 彼は 何事もなかったかのように コンサートを成功させ

彼のファンが 楽しみにしていた 終演後の打ち上げにも参加し

周囲を楽しませ ひとときの空間を 充実させてみせた

 

全てが終わり 楽器を積んで 杣は 彼を自宅まで送った

そして その時 初めて 電話の真相を知った

彼の 幼い 最愛の息子が 夭折した

 

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彼の通う教会で 御子息の お別れの儀が 行われることになった

 

杣は 慌てて 紳士服の専門店に駆け込み

当時の体型に合わせて 喪服をあつらえた

正装というのが こんなに重量があるのかと 驚いたことを記憶している

 

6月の 台風だったか 嵐だったか ドシャ降りだった空が

前夜式の時間が 近づくにつれ 雨がやみ

オレンジ色の黄昏に 変化していったのが とてつもなく劇的だった

 

翌日は 快晴の中 告別式が行われた

 

献花する人々 そして 彼の妻の 涙が 教会に響いていた

彼の友人の チェンバロ製作家が 献花の際 彼の手をとり

何事かささやいた 

 

そして それまで 耐えていた彼も 泣き崩れた

 

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コンサートの仕事で 彼の家に 製作家と共に

チェンバロを 取りに行くとき 

彼の息子は あどけなく 笑っていた

 

しかし 彼が いよいよ 家を出る時になると

彼の息子は 突然 大声で泣き出し 彼を引き止めた

いつだって 出がけに 泣き出し 彼は苦笑していた

 

その幼子は パパを愛していた 

 

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告別式の最後に 彼は 教会のオルガンを弾いた

 

それが 誰かの作品だったのか

それとも 彼の即興だったのか

記憶は 定かではない が

 

その演奏に 杣も ついに 嗚咽をもらした

 

神は 愛する ひとり子 キリストを

人類の贖罪のために 地上に 遣わされたという

それなのに キリストは ゴルゴタの丘で 人類によって 命を奪われる

 

神は その悲しみを知っている 知っているのに何故

彼から これ以上 何を奪おうと考えているのか

やりばの無い悲しみを 怒りに転嫁しかけた矢先のことだった

 

その オルガンの響きは

それ以上 悲しみの崖を 墜ちていきそうな 幾つもの魂を

力強く 救って 「しっかりしろ!」 と 叱咤してくれた

 

誰よりも 辛く 苦しいはずの 彼なのに

その彼の演奏が 

誰よりも 勇敢に 力を与えてくれた

 

だからこそ だからこそ 杣は 嗚咽してしまった

 

あの日の 演奏以上の 音楽を 杣は まだ知らない

 

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ゴルゴタの丘の上で キリストが 息を引き取った時

空は 闇に包まれ 地震が起こり 

天幕が 真っ二つに 裂かれたという

 

そうした記述を 信じたことは無い

 

だが あの演奏に宿っていた エネルギーは

人間を 超越していて

陳腐な表現しかできないが 「神」を感じるものだった

 

あれから 十年が過ぎた

あの頃 重たかった喪服は 今でも 重たい

 

自分の顔が映るほど 暗くなった 電車の窓を

ボンヤリと眺めながら あの日の奇跡を 思い出していた

イヤホンから流れてきたのは 計らずも

ジャーニーの セパレート・ウェーズ

 

 ∵ 日 々 創 作  ∴ 時 々 仕 事

 

10/29 楽器

「大吉君」

7/17 動画

音の影

7/15 作曲

テノヒラ未来

3/ 26 動画

冬の終わり

2/ 4 作曲

獏飼い注意

1/24 作曲

ゆらゆら

1/12 動画

自我持参