緋い音

「今日も暑くなりそうだわ」

ベランダで洗濯物を干しながら、恵美子はつぶやいた。

それでも、その声は明るかった。ささやかではあるが

郊外に念願のマイホームを手に入れて、初めての夏である。

あと2週間もすれば、家族で海外旅行に行く計画も立っている。

恵美子は、鼻歌を口ずさみながら、青い空に向かって洗濯物を干し続けた。

 

 

ピンポーン。と、玄関のチャイムが鳴った。

時計を見ると、すでに10時になっている。

「あら、時間ピッタリだわ」かすかに驚いたものの

「ハーイ」と大きく答えながら階段を降りていった。

「すいません、2階にいたもので。さ、どうぞ、こちらです。」

恵美子は初老の客をリビングに通した。

 

今日はピアノの調律の日である。

娘にピアノを習わそうと、ピアノを購入して初めての調律である。

調律というのが、どんな作業なのか恵美子には分からなかったが

購入した楽器店のすすめで、とりあえずお願いしたのだった。

 

『素敵なお部屋ですね』ゆったりとしたソファーに腰をかけながらそう言った。

「いえ、たいしたものじゃありませんの」そう答えながらも、悪い気はしなかった。

しぶる夫を口説いて、それなりに見栄えがする家具やソファーをそろえたつもりである。

 

『失礼ですが、奥さんとは以前どこかでお会いしましたっけ?』

調律師の唐突な質問に、恵美子は笑いながら

「いえ、ピアノを購入したのは初めてですから」と答えた。

実際、恵美子は自分がピアノを習いたかったのだが、夢はかなわず

自分の娘にその夢を押し付けようとしていたのである。

調律師は、何度も失礼しましたと恐縮し、汗をぬぐった。

冷たいお茶を出し、『終わったら声をかけますので』という言葉に少し安堵しながら

恵美子は再び2階へ階段を上って行った。

 

 

 

やがて、ポーンポーンというピアノの音が鳴り出した。

ふと、恵美子は洗濯物を干す手を止めた。(この音、どこかで聞いたことがあるわ)

そんな気がしたのである。ポーン、ポーン…

その断続的な音の中で、恵美子はうっすらと遠い記憶の輪郭が

鮮明になっていくのを感じていた。

それは、どこかで強引に封印していたはずの記憶だった。

 

 

あれは、そう、小学校低学年の頃だったかしら。

私は、どちらかというと人見知りをする性格だったから

クラスの友達といえば一人くらいしかいなくって、ええっと名前は…

そう裕美ちゃんっていったっけ。

 

裕美ちゃんの家は、お母さんもお仕事に行っていて

私は毎日学校の帰りに裕美ちゃんの家に寄っていたんだわ。

裕美ちゃんは元気でいるのかなぁ…

そういえば、裕美ちゃんは足が悪かったんだわ。

体育の時間はいつも見学していたし、遠足にも行けなくって

動物園の写真を羨ましそうに見ていたっけ。

 

そういえば、時々「今日はお父さんが来る日なの」って嬉しそうにしていたわ。

お父さんが来た次の日は、お人形とかぬいぐるみが増えていて…

あの頃は、そんな裕美ちゃんが、ちょっと羨ましかったなー。

でも、お父さんが来る日ってことは、毎日は帰って来なかったってことでしょ

きっと家庭の事情がいろいろあったのかしらね。

 

あの日も、新しいぬいぐるみを見せてくれて…

あの日? あら、何の日だったのかしら…

 その新しいぬいぐるみは、私もすごく欲しかったスヌーピーで

とっても大きくって、私が貸してって言ったら、「ダメ」って意地悪されたんだわ。

あの日は、とても寒くって、裕美ちゃんが自分でストーブをつけていて

とても驚いたから、たぶん冬だったのかしら…

 

 

やがて蝉がうっとうしく鳴きはじめた。

階下のリビングからは、あいかわらずポーン、ポーン、と

ピアノの音が聞こえてくる。

 

 

そうそう、あの日もこの音がしていたんだわ。

ポーン、ポーンって。あれは調律の音だったのね。

きっと近くの家で、ピアノを調律していたのね。

 

それで、あの日って、なんのことだったかしら。

そうそう、スヌーピーのぬいぐるみを貸してもらえなくって

そう、取り合いになったんだわ。いつも私が親切にしてあげてるのに

裕美ちゃんったら、時々意地悪なことして、ちょっと憎たらしかったなぁ。

 

あの日もそれで取り合いになって、裕美ちゃんはいつもよりケチになっていて

私もムキになって、やっと裕美ちゃんからスヌーピーを奪い取ったら

その勢いで…ストーブが倒れたんだわ。そう、ストーブが倒れて…

 

 

恵美子は、ワナワナとベランダにへたり込んだ。

そして、最後の記憶の1ページが鮮明に蘇ってきた。

 

倒れたストーブは、あっという間に炎を吐き出し、部屋中に広がっていった。

炎の向こう側にいた裕美は、泣きながら悲鳴をあげていた。

恵美子には、真っ赤な世界に飲み込まれそうになるのが恐ろしくて

持っていたぬいぐるみを裕美に投げつけ、玄関に向かって駆け出してしまった。

ドアを開ける時、振り向いた恵美子の瞳には、

ぬいぐるみの下でかすかにうごめく黒い塊だけが飛び込んできた。

ゴォーゴォーという炎の咆えるような音の中に

ポーンポーンと、うつろな音がうめくように鳴っていた、、、

 

 

『すいませーん!奥さーん!終わりましたよ!奥さーん!いらっしゃいますか?』

そう叫ぶ調律師の声で、恵美子は我に帰った。

恵美子は、それでも必死に笑顔をとりつくろいながら、階下に降りていき

「すいませんでした。ちょっとウトウトしてしまったみたいで」と弁解した。

 

『大丈夫ですか?顔色がよくないみたいですよ?』心配そうに調律師が顔を覗き込んだ。

「いえ、あ、大丈夫です。ちょっと陽にあたり過ぎてしまったみたいで」

 

お茶を出し、ピアノの管理のアドバイスを受け、玄関まで送っていった。

初老の調律師は、靴を履きながら、下駄箱の上にあった郵便物を見つめていた。

そして、静かに微笑みながら扉に手をかけた。

『それでは、失礼致します。あっそうそう、火のあたり過ぎには気をつけて下さいね。

 命に関わることもあるそうですから』

 ∵ 日 々 創 作  ∴ 時 々 仕 事

 

10/29 楽器

「大吉君」

7/17 動画

音の影

7/15 作曲

テノヒラ未来

3/ 26 動画

冬の終わり

2/ 4 作曲

獏飼い注意

1/24 作曲

ゆらゆら

1/12 動画

自我持参