「たったひとつの勲章」

(BGM)

 

 

工房では新しい楽器の産声が上がっている。

後は調整と塗装等をすれば完成する。

いつもなら、完成間近というのは、一番ワクワクときめくものなのだけれど

今回そうした高揚とは無縁となってしまった。

出来上がったら、是非とも弾いていただきたかったチェンバリストが

年明け間もなく逝去されてしまったのだ。

その喪失感と悲しみから救ってくれたのも、実は淡々と黙々と

単純作業が続いた楽器製作ではあったのだけれど。

 

彼女と最初に仕事をしたのがいつのことだったのか

もう憶えていないくらい昔からのお付き合いだった。

とても美しい容姿なのに、オヤジのような喋り方でおどけてみせて

それでいて演奏している姿は、何かが憑依しているような

そんな不思議なバランスを持った人だった。

音楽家にしては珍しく、スポーツに精通していて

コンサートで会う度に、彼女の好きなプロ野球のヤクルトの話や

私の好きな浦和レッズの話をして、大いに盛り上がれる希有な方だった。

 

・・・・・・・・・・・

 

20104月、私達はソウルにいた。

彼女がイタリアのヴァイオリニストからの依頼で

ソウルでコンサートをすることになったのだ。

がしかし、彼女は韓国事情に精通していないし、それどころかアジアは初めてで

あまりに不安で、私にSOSを送ってきてくれたのだった。

そのコンサートの数日前まで、偶然にもソウルでメンテの仕事をしていた私は

滞在を延ばして彼女と合流した。

それはそれは、不安と忍耐と感動に満ちたコンサートだった。

 

ここに 少し 回想してみよう。

 

 

ソウルは世宗文化会館で開催されているバロックフェスティバル。

そのトリに、エンリコ・ガッティというヴァイオリニストと

イタリア留学時代に一緒に仕事をしていた

チェンバリストの芝崎久美子のコンサートが開催されることになった。

バロックヴァイオリンとチェンバロという古楽器による演奏である。

リハなどの日程はソウルの主催者からメールで送られてくるものの

何度問いただしても、楽器や調律に関する情報が返ってこない、という状況だった。

 

彼女は、私が韓国で古楽器の仕事をしていることを知っていたので

一緒に同行してくれないかとオファーしてきてくれた。

空港から到着した彼女のホテルで合流し、南大門市場で晩御飯を食べながら

それまでの情報を整理し、今後の対策を検討した。彼女は言った。

「明日、主催者の方と会う予定があるんだけど」

私はニヤリとして

『それなら、何としても本番で弾く楽器を見たいと駄々をこねてください!』

「わかった。でも英語で駄々をこねるのは初めてだから…」

 

翌日、私は別の場所でメンテに勤しんでいた。

韓国の仕事の際、私はお客さんに飛行機代や宿泊代を請求しない。

日本と変わらないメンテ代のみ請求し、経費はその中から賄っている。

トータルでは当然儲からないのだけれど

その価格設定故に救出できた多数の楽器のことを思えば、調律屋の本望だと思っている。

なので、延長した日々にもメンテの依頼を受け、仕事をしていたのだ。

夕方、帰りのタクシーの中で携帯が鳴った。彼女からだった。

 

「主催者に言って、これから楽器を弾きに行けることになったんだけれど

 不思議なことに、調律師は日本から来ることになってると言うんだけれど…」

『楽器を弾けるのは、とりあえず良かったですね!グッジョブです!

 でも誰だろう、日本からの調律師って…』

「どうやら電話で調律師と連絡をとったって言うんだけれど、カヤノ君電話した?」

『いや、まさか』

「今一緒にいるから電話代わるね」

そして、電話を代わって日本から来る調律師のことを尋ねたがラチがあかない。

とにかく、楽器のある住所を聞き出して、タクシーを飛ばしてもらった。

 

2010年の春の欧州というのは、アイスランドの火山が噴火して

その噴煙で航空運行が乱れまくった時期でもある。

我々は楽器の状態や、日本から調律師が来てるかも知れないという情報が錯乱してる上に

更にエンリコが来韓できないかもしれないという多重苦に頭を痛めていた。

そんな状況の中、とある家の前でタクシーを降りた。

初めて会う韓国のチェンバリストの家に、その楽器はあった。

彼女は既に到着していた。

 

彼女は、いつだって笑顔だった。

訃報を聞いた後でも、何故か彼女の笑顔しか思い出せないくらい

周りを楽しませて、自分も楽しんでいる人だった。

でも、その時、本番で弾く楽器を目の当たりにしている彼女に

笑顔がなかったことを、今思い出した。

私は、その顔色だけで、彼女の抱いた楽器への不安を即座に察知した。

簡単な挨拶だけを交わして、鍵盤を弾いてみる。

やはり、やばい。

調整の難易を探るためにジャックレールを外し、ジャックを1本抜いてみる。

調整するには最悪な、調整ネジのないプラスチックジャックだった。

 

日本語が分かるのは、私と彼女だけなのだから、会話しても構わないはずなのに

それでも楽器を弾いてしまった我々は、視線だけで会話をした。

本番は日曜日。

その日は金曜日。リハを含めて調整の勝負のほとんどは翌日の土曜日のみ。

持ち主に聞いてみれば、アメリカ留学時代に

チェンバロの先生がキットを組み立てた楽器であることが判明した。

タッチを変更する了解をとった。

持ち主自身も弾きにくくて困っていた、と答える。

そうしてようやく、謎の枢軸、今回のコンサートの主催者と話をすることが出来た。

 

『日本から来る調律師の名前を教えて欲しい』

そんなコトは言っていない

『先ほどタクシーの中から電話で話したはずだが』

そんなコトは言っていない

『この楽器をコンサートで使うことにしたイキサツは?』

私達が知ってる楽器所有者が、その人だけだったから

『そんなハズはない。バロックフェスティバルは今までも行われてきた

 私も調律に来たことがある。他のチェンバリストを知らないはずがない』

私達は過去のことは知らない。私達が知っているチェンバリストは…

 

がしかし、ここまで来ると、そんな経緯はどうでも良くなってきた。

問題は楽器のコンディションである。

幸いエンリコの乗った飛行機も無事に訪韓できた。

 

翌土曜日は、持ち主の家で、朝から調整調整そして調整。

午後にはホールへ運び込んでリハーサル。そして調整。

まだまだ時間が足りない。でも、やるしかない。

楽器が運び込まれた頃を見計らってホールに向かった。

そして愕然とした!

そこにいた舞台監督(ステマネ)は、一年前にやりあった宿敵だったのだ!

とりあえず、愛想笑いでアニョハセヨ…

 

チェンバロというのは温度変化に忠実である。

気温が2℃上昇すれば、ピッチが1Hz下がる。

低音部の弦に使用してある真鍮という素材は、さらに著しい変化をする。

つまり、調律が容易に変化してしまうのである。

なので、ステージの照明やエアコンに関して、出来るだけ本番と同じ条件が必須なのだが…

一年前、同じホールでコンサートをした時、その舞台監督は、こちらの懇願を受け入れ

そして見事に裏切り、休憩調律で死にものぐるいになった私を冷笑した輩である。

一年ぶりに再会し、彼はニヤリ、私はドキリ…

 

私は犬になった。

韓国語でケーセッキという罵語があるが、これは犬野郎という意味である。

それくらい蔑まれた言葉であるのだが、私はあえてケーセッキに成り下がった。

舞台監督にオモネり、今回は照明を落とさないよう懇願した。

なんてたって重要なのは、己のプライドよりも、本番のステージのコンディションである。

ここで舞台監督が御機嫌を損ねたら、演奏家に聴衆に、つまり音楽に関わってくる。

それでなくても、まだチェンバロの調整が微妙な段階なのである。

そんな裏側の売魂作戦というカケヒキが功を奏し、無事にリハーサルは終了した。

 

本番の日曜日を迎えた。

やはり朝一番でホールに入り調整に従事していた。

本番前には、チェンバリストの彼女も安心してもらえる状態までこぎ着けた。

あとは、舞台監督だけ。

開場して、お客さんが入ってくると、案の定、舞台監督は照明を消した。

わざとである。

私は、自分の韓国語のレベルを自覚している。

なので拙いながらも、伝わるまで幼語で確実に説明を試みるのである。

一年前と同じ、こちらの要求を知り了解しながら、わざと裏切るのである。

がしかし、今回のフェスティバルの主催者は、このホールである。

私は本番調律の途中に、主催のスタッフに理由を説明し

本番と同じコンディションにしてもらうことに成功した。

それを見ていた舞台監督の機嫌の悪いことと言ったら…

でも、大切なのは、コンサートだからさ…

 

本番が始まった。

私が彼女の演奏で印象に残っていたのは、いつもフレンチプログラムだった。

その上品で雅な演奏は、彼女の風貌にも似合っており、感嘆したものだった。

しかし、今回の演目はイタリアンである。

躍動的で情熱的な曲を、お姫様のような風貌で揚々と奏でて

それはそれはステージの温度よりも熱く驚愕だった!

ガット弦のヴァイオリンを弾いているエンリコは、低い湿度のナーバスになっていたが

曲を重ねるごとに、どんどん音楽の上昇気流に乗ってゆく!

舞台袖で、その演奏に感嘆していた私の横に、座り込んで来る人物がいた。

 

「素晴らしい演奏家だな」

舞台監督は、隣に座りながら笑顔で言った。

私には、不機嫌な顔しか見せたことがなかっただけに、驚きながらも

『ええ、私もこの二人が一緒に弾くのは初めてですが、感動しています』

「俺も感動した」

私はあらためて音楽の力を感じずにはいられなかった。

アンコール2曲が終わって終演した後に、舞台監督は私に握手を求めてきた。

「おつかれさん」と言いながら、右手を差し出してきたのだ。

私も御礼とねぎらいを伝え、敵扱いしていた自分を恥じた。

 

翌月曜日、彼女と私は仁川空港にいた。

舞台監督の豹変ぶりを、面白おかしく伝えた後、彼女はしみじみと言った。

「カヤノ君は影のMVPだね、本当にありがと」

スポーツの話が通じる相手だけに、その言葉の意味が深く温かく伝わってきた。

嬉しかった。

とってもとっても嬉しかった。

『いや、そんなこと無いっすよ。調律屋だったら、誰でも頑張っちゃいますって!

 それになりより、演奏が素晴らしかったですからね。音楽の力です!』

 

我々が乗る飛行機は異なっていたが、それまでの時間を空港で過ごした。

伝統工芸ブースの体験コーナーで、絵を塗りながら、いろんな話をした。

『音楽は野球みたいなものなんですよ。満塁ホームランで一挙に逆転できる。

 でも自分ら技術屋はサッカーみたいなもんなんですよ。

 頑張っても1点づつを積み重ね続けるしかないですからね』

ブースの舞台では、二台の伽耶琴が演奏されていた。

一台は弓奏で哀愁漂う旋律を奏でていた。

「やっぱり、韓国の伝統音楽はいいね」

その曲がショスタコのジャズ組曲のワルツだとは、最後まで言えなかった…

 

 

・・・・・・・・・・・・

 

帰国後も、何度か彼女のコンサートで御一緒させてもらえた。

純粋な聴衆としてリサイタルを聴きに行ったこともある。

私は音楽に関してだけは、世辞や社交辞令というものに無頓着だが

彼女の演奏は、いつも音楽だった。

そんな彼女からいただいた“影のMVP”という賞賛は

私にとって、たったひとつの勲章である。

あの沸き立つような現場で音楽に貢献できたこと

これこそが調律屋の本望なのだと思う。

彼女の演奏によって教えていただいた、調律屋の矜持

大切にしなきゃ…

 

ウツツでは、もう会えないのだけれど

もしかしたら、どこか高いところで新しい楽器の音を聴いてくれてるかも知れない。

もしかしたら、私も生を終えた後に、再び会える日が来るかも知れない。

もっともっと、影のMVPになれるよう頑張らなければ…

演奏者も聴衆も、ただ音楽しか感じられない空間になれるように

楽器とか調律という媒体が消えてしまうくらいに…

頑張りますので、どうか見守っていてください。

そして、どうぞ安らかにお休みください。

 

 ∵ 日 々 創 作  ∴ 時 々 仕 事

 

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