鍵盤の影の中で

うまい酒を飲みながら、つらつらと考える夜がある。

 

ストーブの上のヤカンからは、消えてゆくために生まれた湯気が

時間のように、止めどなく変化しながら昇ってゆく。

台所では温かい料理の匂いが立ちこめている。

その日の仕事を反芻しながら、気がつくと

相変わらずであり、拭うことのできない「鍵盤」というテーマに辿り着く。

 

ヨーロッパの民族音楽は、鍵盤の存在によって

時代や地域を超える翼を手にしている。

鍵盤という合理的なシステムは、様々な可能性を展開してきた。

しかし、その光が眩しいほどに、それによって生じる影は深く濃くなってゆく。

合理的故に抱えた限界… その中で自分は仕事をしている。

 

様々な時代の鍵盤楽器を、様々な音律で調律してゆく。

18世紀までにあれだけ登場した音律達も

やはり鍵盤の影が孕んだ胎児なのだろう。

かつて自由奔放だった音達は、直立不動の償いに“唸り”を手に入れた。

鍵盤楽器の音律は、その唸りの中で、新しい自由を模索し続けている。

 

新しい自由は、しかし決して響きの中にしかその居住を許されず

因縁の無い侵入者は、徹底的に拒まれてしまう。

チェンバロへの平均律や、ピアノへの古典調律は

これらが響きによって拒絶されてしまうのは

唸りだけで音律を扱ってしまったからであり

それでは、ただの楽器への強姦にしかすぎない。

 

恐らく、音律や調律を司る主人とは

曲の調性や、人間の好奇心などではなく

楽器の響き、そのものなのだろう。

 

 

振動に身体が直接参加できない鍵盤楽器は

他の楽器に比べて、演奏する者から“間接的”という言葉では

処理しきれないほどのキョリがある。

自分の心と書く“息”を注いだり、指で弦の振動と戯れる旋律楽器とは異なり

体と音の間に信頼を必要とする“運動”が介在している。

タッチの調整は、その運動の質・量・時間について点検されてゆくが

そのベクトルの先には、ただひたすら身体に忠実な音だけが待機している。

体と音のキョリを縮めるには、その運動が限りなく体に充実でなければならない。

だからきっとアクションは、存在していないと思われることこそが

最高の存在価値であり、存在の意味なのだろう。

 

そんな深い影の中で、自分はどんな仕事がしたいのだろう…

 

ふと、京都でメガネを作った時の感動が甦る。

そのメガネが自分の頭や顔に合わせて調整されていく度に

まるでメガネをしていないかのような気がしていったものだ。

頭を振ってもメガネはズレないのに、違和感が全く無い状態に調整されて

その技術に、羨望に近い尊敬を覚えたものだ。

 

酒とて然り。

まずい酒ほどアルコール臭が、その存在を誇示するかの如くまとわりつくものだが

うまい酒となるとアルコールの存在を忘れさせてしまう。

 

つまり、人間の仕事とは、高めれば高める程

その人の存在が消えていくものではないだろか。

 

自分の音を押し付けるのでなく、楽器の音を引き出せるようになった時

調律師も、存在しない存在になれるのではないだろうか。

 

 

鍵盤楽器の“可能性”は、これからも音楽家によって拡げられていくだろう。

その影のような“限界”には、技術屋にとっては、むしろ可能性よりも

おもしろいことが沢山隠されている気がしてならない。

俳句のように、五・七・五の語数の限界の中に

長編小説よりも大きな世界が広げられるように

鍵盤の限界と積極的に対峙して、その領域を拡げていきたいものである。

 

 

つらつら考えているうちに、温かい料理が食卓に並び始める。

アトリエで静かに呼吸を始めた、造りかけの楽器は、オクターブを19に分割してある。

春までに、ミーントーンの領域は、どこまで拡げられるだろうか。

そして、このうまい酒のように、いつかきっと“無”に近づきたいものである。

 

ストーブのやわらかい沈黙が、実にけなげで、愛おしくなる。

 

 

 ∵ 日 々 創 作  ∴ 時 々 仕 事

 

10/29 楽器

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