・・—  ・・・  ———

BGMを聞きながらお読みください)



“  ここに登場する人物は、全て偽名として記すことになる。

 それは、彼等へ何らかの迷惑がかかる可能性が

 大きいと懸念しての配慮である。

 そして、これほどの出来事に遭遇して、長い期間に渡り

 どこにも公表しなかったのも、同じ理由による ”

 

 

02年に初めてソウルへ仕事へ行ってから、もう8年が経った。

軽自動車にチェンバロやフォルテピアノを積み込んで

海峡を渡り、漢江を超えたことも何度もある。

そして、現地の演奏家や調律師と知り合い

今でも年に数回の訪韓時には、懇意にさせていただいている。

 

それは数年前、ソウルの調律師達と、酒を酌み交わしている時に出た話だった。

来週、北朝鮮からピアニストが訪韓するのだが、調律師も同行するらしい。

しかし、韓国人は接触することが禁じられている。

モクサン、君は日本人だから会うことができるんじゃないか?

そんな内容だった。

 

北朝鮮のピアニストか…そして調律師…

私は酔った意識が一気に覚醒して、そのコンサートの情報を詳しく教えてもらった。

理由は分からないが、とにかく会えるものなら会っておきたいと本能が命じたからだ。

私は、今までにも幾つもの重要なきっかけを、理屈でなく本能のままに取得してきた。

今回も、何故かそんな直感が私の意識を支配したのだった。

 

翌日は光化門の近くでメンテだった。

私は早速、現場から日本大使館へ電話を入れた。

T書記官は懐かしい声で私の要望を聞き入れてくださり

仕事が終わって大使館へ立ち寄った。

約束の時間には少し早かったが、T氏は笑顔で迎えいれてくれた。

彼には、以前にも何度かお世話になっており

その度に窮地を救ってくれた恩人でもある。

 

私が行くまでの間に、全ての情報と書類を用意してくれていた。

そして、幾つかの注意を促してくれた。

そこには、ピアニスト及び調律師とは、会話をすることを禁止されている

というものまで含まれていた。

なので、リハーサル前の調律作業と、リハーサルのみを

ホールの座席から見学できる、という内容だった。

それだけでも、深く感謝し、許可書などの書類を胸に大使館を後にした。

 

 

翌週、私は帰国のフライトを二日間延ばすことにした。

格安の往復チケットだった為、新たに航空券を購入せざるを得なかったのだが。

そして当日、経験したことのない緊張感をまとってホテルを出た。

コンサート仕事用に持参したフォーマルなスーツを着て

いつもより丁寧に髭をあたって。

 

タクシーを降りて、世宗文化会館の長い階段を上る。

正面に貼られた今夜のコンサートのポスターには

ソールドアウトの貼紙が見える。

そのまま、楽屋口に回ると、そこには想像以上の警備が待っていた。

韓国側は制服の警官が歩哨として立っているのに対し

私服のSPは、どうやら北朝鮮の警備と思われる。

私はカタコトの韓国語で訪韓の目的を告げ、大使館が発行してくれた書類を提示した。

 

ある程度は予想していたのだが、やはり入館には難儀した。

予定より早めに到着してよかったと胸をなでおろす。

ボディチェックを受け、パスポートを預けたまま

私は私服と共にホールの座席に向かった。

ステージには、スタインウェイのフルコンが鎮座しており

空っぽのホールに調律の音が充満していた。

 

会話はもちろん、撮影や録音もタブー。

調律の様子を見学したいという申し出に、先方は訝しげに対応していたが

単調な調律の音に、同席していた私服は退屈したのだろう。

やがて、再び注意事項を守るよう念を押して立ち上がり

持ち場であろう場所へと去って行った。

3000人が収容できる大きなホールの中で

私は、北朝鮮から来た調律師と二人だけになった。

彼は私の顔をチラリと見て、そのまま調律を続けていた。

 

割り振りが終わり、オクターブを広げていく頃

ふと、その打鍵に違和感を覚えた。

不思議なリズムで打鍵しているのである。

不規則に、音の長短が分かれている。

はたして、これでどうやって音色やウナリを聞き分けているのだろうか…

同業者としては、かなり不可解な作業である。

そして、その不可解さ故に、気がついてしまった。

 

I am Japanese

 

それは、モールス信号だった。

打鍵の長短は、そのままメッセージになっていたのである。

実は、私は小学生の頃、アマチュア無線の資格を取りたくて勉強していた時期があり

英語のアルファベットと数字のモールス信号を記憶していたのである。

そして今でも、作曲の音符の長さや、楽器の装飾にも、モールス信号を多用している。

なので、私はステージ上の調律師のメッセージを理解してしまって

本能がここへ導いた理由を知った気がした。

 

私は、そのメッセージへ返信する術を考えた。

拍手をしようか、足を踏みならしてみようか…

しかし、それでは他の人にバレてしまう可能性が高い。

彼は、相変わらず“私は日本人”というリズムで調律を繰り返している。

どうするべきか…

そこで閃いた!

ポケットにはLEDライトが付いたライターが入っていたのだ!

私は、さりげなく彼の顔をめがけて発光を開始した。

 

Can you speak Japanese?

 

瞬間、彼は調律の手を止めてしまった。

しっかりとこちらに視線をおくってきた。 まずい…

誰かに気付かれるかも知れない…

即座に私は視線を天上に向けた。

彼も理解したようで、調律を再開した。

先ほどとは異なったリズムを打ちながら…

 

Off course

 

私は英語が苦手なので、ローマ字の日本語にして再び光を放った。

 

「Watashimo nihonnjin」

 

『Hontoudesuka』

 

そしてオクターブと検査音程を通して、我々の会話が始まった。

 

「なぜ 北朝鮮にいるのか 拉致されたのか」

『違う 空からやってきた』

「国籍は日本なのか」

『そうだ』

 

続く会話の中に出てきた、1992年、風船、という単語から

思い当たる記憶がゆっくりと整列を始め、ひとつの確信へと辿り着いた。

そう、誰もが彼は亡くなったと思われている、その人だったのだ!

私の記憶が正しければ、彼はまだ60歳を超えたばかりなはずだが

ステージの上のその容貌は、もっと老けて見えた。

 

「あなたの事件は知っている」

『私のことは 誰にも 話してはいけない』

「なぜだ 家族も心配しているはずだ」

 

調律は、いつしか高音部に差し掛かっていた。

打鍵のタイミングが聞き取りにくくなってゆく。

途中、何度か私服がステージの袖から

私を監視するために出て来ては、鋭い視線を投げかけてきた。

しかし、気付かれることはなかった。

私は繰り返し「何故だ」と問うた。

すると、彼は急にインテンポで調律を始めた。

「何故だ」「何故だ」「何故だ」

 

私の肩が叩かれたのは、その時だった。

足音を忍ばせて来たのか、或は自分がピアノの音に

気を取られ過ぎていたのか分からないが、振り向くと二人の男が立っていた。

聴き取りにくい発音は、恐らく北朝鮮の訛りのせいだろう。

時計を指し、もう時間が来たことを訴えている。

私は、自分の行為がばれていないことに安堵し

二人の男に従って出口へ歩き始めた。

ホールの重い扉を開ける瞬間、調律のリズムが変わった。

 

sayonara sayonara sayonara

 

 

あれから数年が経った。

私の机の引き出しには、まだその時のライターが残っている。

今でも時々、天上に向かってモールス信号を放ってみる。

 

なぜだ なぜだ なぜだ…

 

彼は、どうしているだろうか。

私はどうするべきだったのだろうか。

今でも、天井に映る点滅を眺めながら

後悔に似た味のする感慨に包まれる。

どんなに耳をすませても、その答えは聞こえてこないのだが…

 

 

 

 

[著者後記]

2009年の2月の終わりに、韓国へメンテに行き

その時に出くわした衝撃的な遭遇!

なーんてことはなく、完全なるフィクションです。

 

1992年、消息を絶った風船おじさんの事件を覚えていますか?

実は、彼は我々と同業者の調律師だったのです。

なもんで、彼が北朝鮮に不時着した、という想定で思いついたストーリなのでした。

 

この作文のタイトル「・・— ・・・ ———」は

モールス信号でuso、つまり嘘という意味になってます!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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